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02/25のツイートまとめ

3or7935

何もしてないけど何かしてる風を装うのがエスカレートして、なりすましちゃったりするのだろうか。
02-25 20:21

つい先日「なんか創作してる風のツイートをやたらするけどホントになんかやってんのわかんないアカウントは見ててもやもやする。」という話をこのアカウントをしらない知人にされた。
02-25 20:20

久々に満足いくものが出来た。気分が良い。
02-25 20:17

うん、すごく良い曲できたわ。とちょくちょくなんかやってる感じのツイートもするけど、このアカウントはその創作活動と関連付けられていない。何か一つぐらいはと思うけど、どうしようかな。
02-25 19:47

リミックスなんて許諾を貰いに行くと相手も断り難いんだろうと思うし、その上で気に入らないやつで、それを公認した形にしなきゃならない時は、とてもいやな気持ちになると思うんだよね。褒めなきゃいけないし。褒めなきゃいけないし。
02-25 19:39

まぁ無断転載される個人的メリットというのなくなってきているとは思うから。されたいという積極的な気持ちは薄くなってるけど、拒絶するような嫌悪感はない。それよりも無断改変だな。されたいし許諾を与えたくないのは。
02-25 19:37

個人的には無断転載はされたいし。正当な転載は許可したくない。無断転載を痴漢に置き換えると変態クソビッチだと思うんですよね。だから無断転載を痴漢で喩えるのはやめて欲しい。
02-25 19:31

より強大な悪を叩くべきだ。という思想は理解はできる。なにがより強大であるか等の問題もまたあるけれど。
02-25 19:28

全てのリンゴを同時に手に取れないのであればどのリンゴも食べるべきでない。というのもドグマとしてはありだと思いますけど。
02-25 19:16

リンゴが食べたい時に、全てのリンゴを食べなければならないか。また全てのリンゴを食べなければならない時には全てリンゴを同時に手に取らなければならないか。
02-25 19:13

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02/24のツイートまとめ

3or7935

先ずどの様に区別をするか。ここでは確かに対立するAとBを、AであればBでなくBであればAではないという関係を定める事。それが可能であるか、可能であればどの様にそうするか。
02-24 23:47

話はそう単純でないかも知れないが仮に信じるという点で同一であったとして、その時でもその信じる事のうちに各々がその違いとともにあるかもしれない。
02-24 23:28

彼は神の存在は事実であると思っている。「あいつは信用ならない」といって続けて私に「俺は神なんて信じない」といった。私は神はいないと思ったから「それは違う」といった。彼は「神を信じているのか?」と訊ねてきたので、私は「いや信じていない」といった。
02-24 23:21

私は専ら音楽についての創作活動を行っているだろうか。
02-24 23:15

なんとなく良い主題を作ってみようとか試みたりしている。
02-24 23:12

「私は神を信じていない。」という結論する仕方のうちでどの様な仕方が科学的態度であると言えるか。そもそも「科学的態度の領域」はどこまで及ぶのか。
02-24 23:08

一旦離脱。また野球の後で。
02-24 21:08

仮に「神を信じる事が宗教である」時で「私は神を信じているだろうか?」と考える人間はどの様な時に「私は神を信じていない。」と結論するか。
02-24 21:07

テリトリーとはどの様に定まるか。また科学的態度とは、ある振舞い、性質は何らかの選択可能な、意思により結果をいうののか。それとも結果をもたらす性質そのものを言うのか
02-24 20:48

区別がされたあとで、そこに価値が導入される時の問題。
02-24 20:11

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02/23のツイートまとめ

3or7935

それらは確かに区別されているようであって、それは如何にして区別されているのだろうか。
02-23 16:09

思索やらなにやら。その続きはまた夜かな。
02-23 16:04

とりあえず、ここまで。
02-23 16:00

ここ、今であれば「この世界に疑う余地のない究極普遍の根拠は存在しない」は論理的によって否定されるという根拠を持つために究極的根拠ではない、としても論理が絶対の根拠として、それは神として振舞うように思え.. http://t.co/FWgW8eRyCx
02-23 15:59

また究極的な普遍の根拠を必要としない時には、それが科学的態度であるかは普遍の根拠がない以上恣意性を持つ。つまり何かが科学的態度であると「知る事」ができない、その客観的事実の存在が危うくなる、その為に何.. http://t.co/RoZ6uTr6uo
02-23 15:57

「この世界に疑う余地のない究極普遍の根拠は存在しない」は究極の、絶対の、その普遍の根拠であるか?というように表現しますが、つまり科学的態度が「究極的根拠を用いない時に科学的態度である」という定義におい.. http://t.co/a15SwBWMSB
02-23 15:56

02/22のツイートまとめ

3or7935

改めて、おやすみなさい。
02-22 23:17

それとそれでないことがある時で、つまり動作と非動作をどの様に区別するか。行為と非行為をどの様に区別するのか。
02-22 22:26

また人は動作のない状態でいることが可能であるか。
02-22 22:21

行為とは、動作のうちで意思によって区別される事の総称か。とにかく、人についての行為でない動作があるのだろうか。と
02-22 22:19

信じる事とはどういうことかというのを考えて、そのまま次に、そもそも何かをする、行為というのはどの様なことだろうと考えたのです。
02-22 22:14

衝動買いってしちゃ駄目だと思うんだわ
02-22 19:20

喝だ!
02-22 01:34

とりあえず、読み直してみます。 被無断転載を黙認する事の是非の話から哲学のお話へ? http://t.co/z7YnKKS663
02-22 01:27

つまり多く、本物の論理学は論理学ではない。ために「哲学は『本当の論理学』である」時には「哲学は論理学である」というのはおよそ説得的ではない。
02-22 01:13

「哲学は論理学」を認められないのは本当の論理学を知らないから。というのは、当然、本当の論理学を知れば認められるという事である。であればは認められない者の知る論理学と、本当の論理学は別である。「哲学は『本当の論理学』である」
02-22 01:06

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02/21のツイートまとめ

3or7935

「『在る』と信じる=『ない』を疑う」だろうか。「『ない』と信じる=『在る』を疑う」だろうか。「在るだろうと信じる」=「在るだろうと疑う」だろうか。信じると疑うの差異ってなんだろう。
02-21 23:37

全てが娯楽として享受されることを、当然の様に肯定すべきなのか。
02-21 23:29

私的な体験に基く偏見。
02-21 23:25

極々個人的な話として「いじめを題材にした作品というのは往々にしていじめっ子を悪者にしてしまう受け手によっては、色褪せてしまう」という憤りを感じてしまう。その行為の構造としては自分がしている事も同じ類だろうけれど
02-21 23:24

その意味で「聲の形」はエンターテイメントだったが。
02-21 23:19

およそ全てを肯定するというのはエンターテイメントにそぐわない。
02-21 23:17

「聲の形」は何がどう衝撃作だったのかというのはそう感じた受けての立場にだいぶ依存していたのでは、というのは当然か。
02-21 23:14

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